やきゅいく

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僕は命の「プレゼント」を貰って、生きていられる

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誰にでも、年に一度は誕生日というものがある。記憶になかったとしても、必ずある。

僕にも誕生日があるのだけど、8月30日が、その日なのだ。

 

今年は、44回目を数える誕生日だった。

誕生日休暇と称して会社の休みを取ったテイにしたのだけれど、実は5年目の検査と経過報告を聞きに、某医療センターに行ってきた。

僕にとっては待ちに待った5年目の予約が、何の因果か誕生日と被るという不思議だ。

 

最高の誕生日プレゼントとなるようにと願っていた。

そして、最高の誕生日プレゼントとなる「異常なし」という結果だった。

 

先だって、お盆前に血液検査、大腸内視鏡検査、尿細胞診の検査を済ませていたので、この日は造影剤CTと胃カメラのコンボと、先生の受診という日だった。

造影剤CTは、その名の通り体に造影剤を注入してCTを撮るのだけれど、造影剤投入後に気持ち悪くなった経験があった。

病院の配慮で、剤の成分を変えてくれた後は気持ち悪くなったことは無いのだけど、結構苦手だ。

余談だけど、造影剤CT検査をする当日は、水分を多めに採ってから病院に行った方が良いと思う。僕は気持ち悪くなる経験をする以前は、朝起きてから一滴も水を飲まずに検査に向かっていた。

それは多分、体内の水分不足のせいだろうし、血中の造影剤濃度が水で薄まれば、気持ち悪くなることも無いだろうというのが僕の推論だ。

 

この、待ちに待った誕生日より遡ること5年前。こんな事があった。

 

我が家はディズニーランドのバケーションパッケージを予約していた。

会社から勤続記念の休暇をいただき、その休みを使って旅行を計画していたのだった。
ところが、当時4歳の息子が、出発前日まで高熱をこじらせていた。
当日に熱は下がったものの、流石に病み上がりの幼児を連れ回すのは良く無いと判断し、大事をとって無念のキャンセル。

キャンセル料として半額を泣く泣く支払い、休暇は家で過ごすことになった。

休暇はキャンセルできないので、時間もちょうどある。僕は思うところがあり、母から聞いていた某医院に予約を取って受診することにした。

普段はなかなか予約が取れないらしいこの医院。トントンと話は進み、即受診。

そこで急遽、人生2回目の大腸内視鏡検査をしていただいたところ、父と同じ腫瘍が見つかってしまった。ウソのような本当の話だ。

 

早速紹介状を書いてもらい、某医療センターに転院。紆余曲折を経て、部位を摘出。後で聞いた話、身内みんなが僕の摘出した内臓を閲覧したそうだ。(できれば写真撮っておいて欲しかったけど、そんなメンタリティは家族にないよねw)

人生初の全身麻酔と手術を体験したのだけど、僕の感想は「一瞬で時間がすっ飛ばされる」だった。

DIOのザ・ワールドもそんな感覚なんじゃなかろうか。

ふっと意識が飛んだのち、瞬間で起こされる。

その時には身体には激痛。痛くて動けない。

既に7時間の時が過ぎていたのだ。

 

手術は、無事に成功していただいた。

身体には管がたくさん付いていて、ちょっと重そうな治療室で痛み止めを注入されながら寝たきりだった。

翌日からは、少しづつ歩くという課題を与えられた。お腹切ってるから、身動き取れないのに、歩けだと・・・。

正気かよ、と思いながら、5メートル歩くのが精一杯だった。

2日後には病棟が一般に戻ったのだけど、僕がする事は数えるほどしか無い。

・歩くリハビリ

・寝ながら本を読むかテレビ

・夜9時前には睡眠薬を飲んで寝る

 

この病棟では、普段では経験できないことがたくさんあった。

特にインパクトが強かったのが、若い看護師さん達に代わる代わる下のお世話をしていただいた(卑猥な意味はない)。

尿道とお尻に管が入っていたので、トイレに行く必要はなかった。下の清潔を保つために、毎日一回、竿をちょいと上げてキレイに洗ってくれたのだった。
身動き取れないし、相手もルーティンワークみたいに接してくる。なんなら世間話しながら処置してくれるので、こちらも恥ずかしさゼロだった。あの時間はいい勉強になりました。(卑猥な意味はない)

1週間程してようやく管も取れて、徐々に食事らしきものを口から入れるようになった。

結構痛かったけど、毎日歩く距離を伸ばすのが日課であり目標だった。

今思うと、20メートル歩くだけでも速度、息の上がり方、病人だったんだなあと思う。

 

術後の再発防止を主眼とした化学療法を勧められたので、2つ返事でやることにした。

退院後に半年、自分で選択した道ではあったけど、化学療法は本当にシンドかった。

飲み薬と注射を、3週間1クールで進めた。

身体のダメージも考慮して、最終的に注射は6クールで終了した。

こんなに辛いのかと思った。

手足の指先が痺れていて、温かいものを持っても冷たく感じる。その副作用が一番キツかった。治療後は熱さを感じることがままならないのだけど、どうしてもコーヒーを飲みたいと思って売店で買った。

そして駐車場で手を滑らせて、全部ぶちまけた。そのくらい、手の感覚が弱っていた。

他には、まあまあしっかり食べていたはずなんだけど、食欲が落ちて痩せた。

 

それから5年経った今でも、指先の感覚は少しヘンだったりしている。

 

1番の衝撃は、医師から宣告された時の妻や、後日に母が泣く姿。ひょっとしたら、草葉の陰でもっと泣いている人もいたかもしれない。

逆に僕は、涙も出なかった。

こういう場面に強いのか、強がっていたのか。

治るに決まっていると、根拠のない自信を持って、それを振りまいていた。

 

様々な人たちの支えがあり、今に至ります。

 

手術と化学療法を経て、無事に執行猶予は過ぎたと言える状況まで来ました。

そのおかげもあるかもしれないし、やってもやらなくても変わらなかったかもしれない。

でも、現実に僕は、再発はない。

 

もう一回あの治療をやれと言われると、ちょっとイヤだなとは思う。

喉元過ぎれば、とも思えない、何とも長い日々だった。

それ込みで今、生きている訳なのだ。

それでも、愉しさを得ようという日々を過ごそうと思うのなら、やっぱり毎日は愉しいと思えた。

 

とりあえずの経過は順調だ。

来年以降も大腸、胃、造影剤CTに、血液検査と尿細胞診というメニューは継続することになって、予約はすでにされている。ずっと付き合っていくことは、もはや仕方のないことだ。

 

そもそも僕はツイてる。

 

今も鮮明に思うのは、父の姿を見ていなければ、僕は病院で検査をしていなかった。

便に血らしきものが混ざっているように感じても、無かったことにして過ごして、ひょっとしたら僕は取り返しがつかない人となっていたかもしれない。

あのタイミングで発熱した息子。

彼に命を救っていただき、医師を始め医療関係者に命を繋いでいただき、家族に支えていただき、今がある。

僕が未来に繋げられることは、僕が成長して、1人でも多くの人によい影響「あなたが存在していてよかった」と思ってもらうことかなと思っている。


5年前のあの日、ディズニーランドで遊んでたら多分もう死んでた。

息子は僕を救ってくれたし、家族も多分救われた。ひょっとしたら、息子自身が僕を必要としてくれていたのかもしれない。

これからも、その期待に少しでも添えるように愉しんで進んで行きたい。

 

健康診断や精密検査は、チャンスがあれば積極的に受診することをお勧めします。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

全ての人に、幸あれ。