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映画「アマデウス」を観て思う、自分にとって大切な3つの気づき

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Hi.How'er you doing?

 

つい先日の英会話のレッスンを受けたとき、僕の口からモーツァルトという音楽家の名前が出てきた。

 

そこで講師の方が持つ「私のモーツァルトの印象」ということで、モーツァルトの生涯は映画化されていて、高校の時に観に行ったという話を聞いた。

僕はそこで聞いた「アマデウス」という映画名を心の片隅に置いたところ、すぐに借りるチャンスが訪れた上に、これまたすぐに観るチャンスまで訪れた。

 

神様なのか、運命なのか。僕にアマデウスを見なさいと言っているようだ。

そしてやはり、僕はツイている。アマデウスは3時間にも及ぶ大作であった。通常の我が家で、僕がテレビを3時間独占することはまず無い。そんな「まず無い」ことが、あり得てしまうのだから人生は不思議だ。

アマデウスという映画名は、モーツァルトの名前からとられている。Mozart は、ヴォルフガング・アマデウスモーツァルトというお名前であるからだ。

しかし、この映画を高校生で観に行った彼女(英会話の先生)は、レベル高い方だと思う。僕が高校生でこの映画を勧められても、恐らくは観なかったであろう。

 

さて肝心の映画はというと、アントニオ・サリエリの主眼でストーリーが進みました。

アントニオ・サリエリとは、神聖ローマ皇帝に仕えていたカペルマイスター(宮廷楽長)だった方で、ど偉い人だった訳です。

映画の評論については割愛したいと思う。僕が映画を語ると「素晴らしい」や「大したことない」など、陳腐な感想文になってしまうからだ。そのため、この映画を観て影響を受けたことを3つ、書きたい。

ひとつは「Mozart 」という音楽に、俄然興味が湧いたということだ。僕はClassic music を聞くのは好きだ。好きではあるが、深い興味が無いので、曲や作曲家についてはうろ覚えである。

大体こうだ。

・顔と名前が一致しない

・作曲家と楽曲が一致しない

・曲名と曲が一致しない

・どの時代の作曲なのか一致しない

・近年の曲と古典派の区別くらいはつく

極端な例を挙げると、ドラクエ等の楽曲との区別はつく、というレベルである。

これで本当に好きと言えるのか?と言われると甚だ疑問である。特にモーツァルトは、何曲も連続で聴くと、軽い頭痛がしてくるのだ。

よく、そんな状況で「I like Mozart 」と言えたものだと我ながら思う。これはチャレンジャーではない。一歩間違うとホラ吹きだ。

この頭痛というもの、実は広い意味がある。

今も聴きながら書いており、そこそこの頭痛が襲ってきている。僕がモーツァルトから影響される「頭痛」は、筋肉痛の部類なのだ。

作中でも皇帝がモーツァルトに「1日に人間が聴ける音の量は決まっている」という類いのことを言った。これは何となく理解できる。モーツァルトのレベルの高い多重奏のオンパレードは、僕の脳には刺激的なのだ。音の量が溢れて、筋肉痛を起こすのだと思う。

こう思うと、胎児や幼児にモーツァルトを聴かせると脳の発達を促進する、という話も、根拠のあるものだと僕は思える。音は流しておくだけで耳に入る。赤ちゃんや胎児は、ただ流れている曲を無意識に拾うだけで脳が鍛えられるのだ。僕らは有意識で音を拾う。この差はあるかもしれない。自分の脳から筋肉痛が無くなるかにも、興味がある。

 

もうひとつは、人はあくまで1人であり、謙虚さがあれば、自分のありたい姿はすぐに近くにあるということだ。

自分の持っている力、能力についての自信があるとして、それが慢心や傲慢と他人に捉えられると、そこには他者からの妬みや嫉み、妨害などが生じて、遠回りしか残らない。

モーツァルトは、音楽の天才であったことに間違いは無い。そして、その才能を自覚していて自信家でもあった。

それ故に、職にあまり恵まれず借金を抱え、貧しかったようだ。しかしそれは、ただ1人の人間として、その時を生きていたが故のことだからだと思う。多大な影響力や感銘を与える人であっても、人数は1人であり、人があっての才能、影響なのだ。

作中で彼は「私は下品な人間です。ですが私の音楽は違います!」と発する件がある。

音楽は彼の死後から現在に至るまで、世界中で聞かれており、その曲、楽譜を元に楽器を弾く者、演じ歌う者、指揮を執る者、あるいは聴く者までもが、その道を極めんとして悩み、苦しみ、修練を積んで、その場にいる。その自己修練や研磨の頂点たるところに、今もモーツァルトはいるのだ。

もはやそれは伝説たる領域だとすら思うのだが、生前の彼は周りからはそこまでの評価は無かったようにも思う。

凄い人だけど、ちょっとね。

と言った評価だったのだろう。

僕は、そんな傑出した天性を自分自身から見出せてはいない。しかしながら、経験値や実績値から自信を持ち、天狗になって失敗するような機会はあった。

モーツァルト程の才能であっても例外はないのだから、いわんや僕においてをや、である。

どんなに偉大でも、人は1人分の権利が妥当であり、その能力が如何なものであっても、他者がいるからこその自者、自分が成り立つのだ。

 

最後のひとつは、認める素直さと柔軟な思考があれば、自分の人生はより楽しめるということである。

これは、作中のサリエリ公について考えさせられることだった。

アントニオ・サリエリ公が作中通りの人物であったかどうかは別だと思う。

ベートーベンやシューベルト、リストやモーツァルトの弟子であるジュスマイヤーモーツァルトの息子までが師事している人物であり、後進の指導は無償、社会貢献活動も多数行う、実績的には聖人の領域な方なのだ。

あくまで作中のサリエリ公を観ての話なのだが、モーツァルトのその卓越した才能に嫉妬し、その立ち振舞いに憎悪し、モーツァルトを心の底から嫌うという人だった。

しかし反面で心の底から彼の才能を認めているため、自分自身が悩み苦しむ場面も多数描写される。

このサリエリ公を観ながら思うのは、自分の表面的な価値観に固執して、本当の自分が認めたいこと、この場合はモーツァルトの音楽的才能であるが、それを否定すると、結果自分が自分を認めることができないため、自分が悩み苦しむ。そして自分も高まらず、満たされず、悔いが残るのであろう。

サリエリ公が1番自分が欲しているものが「音楽的才能」であり、それの追求に生涯を捧げる程ならば、自分が心から心酔するものを持っているモーツァルトと、表面的な素行などは指摘するなり目をつぶるなりして、その才能や能力のあり方を、一番近くで吸収すれば良いのにと思うのだ。

「素行が悪い」「年下の若造」という外的な要因を「自分の固定観念」「音楽以外の譲れない価値観」に照らし合わせて、彼を認めず、敵と想定して、音楽という、一番自分が求めているもの以外の土俵で戦う方法を選んだ。

一番自分が必要として、感銘を受けて、リスペクトしているものを、認めることができない。

これほど辛いことは無いと思う。

人として、という前提は確かに必要な要因であるし、それがあればこそ、その人というものがより輝くとも思う。

しかし、時は18世紀の、少なからず階級や爵位で発言権が変わる時代に、一番認めるべきものを持つ彼に対して、その爵位がありながらも押し付けではなく、対等によりそう姿勢を見せれば、きっと相手も好意を持って接してくるのである。そして、教えたり影響を与えるのはその後でも良い。

子育てもそうだなぁ、と思うのだ。

相手を認めることは、自分を認めることでもあり、自分を認めているからこそ、相手を認めることができる。

認めて生きると、毎日が楽しいのである。

 

映画「アマデウス」から、良いことを学んだ。皆さんも見かけたら是非ご覧ください。Classic  music の壮大さに衝撃を受けるかもしれません。

 

3000文字チャレンジ、神様と絡ませてみました。ほとんど神様言ってないですが。