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顔を見るだけで絆を深めることができる人になりたい#3000文字チャレンジ「顔」

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12月の夜は、どの時期よりも神秘的に見える。

 吐く息は白く、辺りは静寂することでその張り詰めた空気をを維持しているようにも見えた。辺りの景色は人工的な光を浴びると、シャガールが窓から見たような風景がそのまま出てきたようであった。

 今まさに年の瀬を迎えているが、世間が慌ただしいかというと、そうでもないように感じている。2019年は働き方改革の波もあり、淡々と、一定のリズムを刻み続けるメトロノームのような穏やかな時間が流れているのではないかと錯覚するほどである。

 僕が趣味としているこのひとつに、ランニングや散歩がある。

 冬場は肌を刺す寒さが身に染みるが、夏の朝や夜の心地よい空気感や、春秋の過ごしやすい季節には、この上なく爽やかな風を感じることができる。身体を動かし汗をかいた後の、身体中の熱量をcool downしてくれるこの瞬間が、この上ない爽快感を僕に運んでくれるのである。

 走りながらや歩きながらという時に、よくすれ違うのが、犬の散歩をしている人々である。

 犬の散歩をしているのは、女性が圧倒的に多いように感じる。確率にしてみると「今日は焼肉」と言って喜ぶ子どもの数ほどである。

 肉が食べれる、食べれないは置いておいて、あくまで確率の話である。焼肉、と聞いて、喜ばない子どもがどれほどいるであろう。焼肉=狂喜乱舞、この図式は2019年となった今でも変わらないと言いたい。少なくとも、我が家はそうである。

 そんな確率の高い犬と女性だが、すれ違ったのちに犬と人という家族関係について、時折思うことがある。

 一般的に、犬は人よりも寿命が短い生き物である。人の平均寿命が80年からに対して、犬は10年から15年、長くても20年ほどである。

 つまりは、最後は人が犬を看取るのである。これは、火を見るより明らかであり、自然の摂理である。この摂理に反する犬がいるとすれば、それはもはや、フォースである。つまりは、ヨーダである。その犬がマスターであり、女性はパダワン。オビワン、アナキンからルークまで面倒を見れちゃうレベルである。ダークサイドには堕ちないようにだけ注意が必要である。

 ヨーダでない限りは、犬を飼ったら、確実に自分より早く死ぬ。それでも人は犬を飼うのである。

 僕は過去、犬を飼いたいと思ったことがある。確かそれは小学校4年生のころであった。きっかけは曖昧ではあるが、犬がいる生活に憧れを抱いていた。その思い描いた姿は、初春に野原を、心地よく風を切って走っている僕と彼のイメージであった。今思えば、どんな想像力だったのだろう。想像の翼を広げて広げて、犬と空を駆け上がりそうな、夢みがちな子どもであった。

 飼いたいという意思を両親に伝えたところ、答えは「NO」であった。当然幾つもの阻害要因があり、僕はさも当然の権利のように、それは、食事の時間になれば必ず自分の分が用意されている事のように、犬を飼うことの正当性を語った。親としても子どもの主張を極力受け入れる姿勢はあったとは思うが、このことについては当然の権利とはかけ離れていたのである。

 その壁は3つあり、高くそびえ立っていた。巨人を呼んだとしても破壊困難な壁であった。仮に巨人が来たとしても、リヴァイ曹長バリの速さで消されてしまう。ベルトルトでも呼んで、破壊してもらう以外に手はないかもしれない。とはいうものの、持久戦に持ち込まれたら結果は決まっている。

 1つ目の壁は、昔隣の家で飼っていた犬に、祖母が足を噛まれた。大騒ぎである。隣近所での出来事だけに、日韓関係くらいの大きな影を落とすかも知れない事件であった。これが無かったら、ウォールマリアは無かったと思われるのである。

 2つ目の壁は、母が幼い頃飼っていた鳥がいたのだが、可愛がっていたその鳥は、ある日無残にも野良猫にかみ殺されていたのである。無残に食いちぎられた亡骸に直面した少女が受けた衝撃と、大切に育てていた生き物の突然の死は、のちに自らの子どもが生き物を飼いたいということについて、大きな影を落とした。これが無かったら、ウォールローゼは無かったと思われるのである。

 3つ目の壁は、長期外出ができないことにある。我が家は野球一家であった。平日と土日は練習。場合によっては県外遠征もある。そして母の実家との距離。大型連休に里帰り等もある。ペットホテルが田舎に普及していない時代背景を考えると、いづれかの知り合いにその都度依頼するというのは難しい問題であった。これが恐らく一番の壁、ウォールシーナである。

いづれにしても我が家には、犬が家族の一員として来ることはなかったのである。

 そのため、僕が生き物を飼ったという経験は、金魚やカニを始めとした川の生き物と、カブトムシやクワガタと言った昆虫類に限られるのである。虫かごに収まる生き物であれば、飼うことができたのであった。これについては、犬や猫のそれとは大分次元が違う。これで生き物を飼っていたと言うのは、「趣味は読書」と言いながら、活字アレルギーで漫画しか読んだことが無いようなものである。

 親になって思うことだが、生き物の世話はそれなりに責任を伴う。まずエサやり。これは、食事の時間になれば自分の分が用意されている小学校4年生の僕のように、生き物たちにも同じ環境を用意しなければならない。そして、水の生き物であれば水を交換しなければならないし、陸の生き物であれば、土を変えなければ不衛生である。

 

 犬を飼うことに対して今思うのは、親が提示した3つの高い壁があったのではなく、生き物を飼う、という自分自身の覚悟の壁が高かったのだと思うのである。

 

 このシャガールみたいな青い夜にランニングしているとき、まさに犬の散歩をしている人とすれ違ったのである。この方もやはり女性であった。犬は豆柴と見えて、小型ながらも凛々しい顔つき。女性は年の頃50くらいと見え、薄手の上着を羽織り、白地のスラックスにスニーカーと、散歩に適した格好で、犬のペースに合わせて早足で歩いている。その顔からは、ゆとりのある表情が伺えた。

 その初老の女性と、小さいながら足取りは確かな犬の姿を見た時。その瞬間に、まるで雲間から覗いた太陽が光を差すかのように、この言葉が降りてきたのである。

 

「人が持つ愛の深さは凄い」

 

 彼女は日々、物言えぬ犬の言葉を知ろうとしているはずである。いや、既にその顔を見ただけで、表情や鳴き声で理解しているかもしれない。

 それは毎日暮らしていたとしても、空を見ただけでその日の天気を言い当てるくらい困難なことのように感じる。これは僕が犬と暮らしたことがないからそう思うのであろうか。毎日語りかけ、彼(もしくは彼女であろうか)に寄り添い、声のない声に耳を傾ける。言葉を話せない動物、この場合は犬であるが、その言動を理解するには一朝一夕にはいかないはずである。

 それは日光東照宮の参拝に似ている。高い階段を一歩一歩登るように、信頼関係を深めていくのであろう。

 

 まさに正真正銘の、無償の愛を捧げているのだと。

 

 それを感じた時に、ふと、僕は家族にそこまでの愛を捧げているのかと思ったのである。物言わぬ家族の声を聞くあの人のように、もの言える家族の声に耳を傾けているのだろうか。

 足りている、と考えもするし、足りていない、とも考える。

 毎日の朝、夜、家族と過ごすとき。人である限りは、言葉を使ってコミュニケーションを取ることはできる。そればかりではなく、家族ひとりひとりの顔や表情、動きや波動から情報を得ること、これは空気を読むという事とはまた別種の感覚、そういうことが積み重なって、お互いの信頼関係や家族の絆が深まっていくのであろう。

 

 

 愛を与える人となる意識をしたいと思うのである。

 

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